
一戸町長 稲葉 暉
中国への働きかけ(広報2010.8月号掲載)
過日、県内の町村長たちと中国の上海市を訪問した。目的はそれぞれの自治体の今後の中国との付き合い方を探ることであった。
付き合いの一つ目である。ご承知の通り、今日本はハッキリと人口減少の段階に突入し始めており、その中で各町村とも地元の特産品を売るのに大変苦労しているし、これからますますそうなるのは間違いない。何しろ、供給の過剰感が強まり、どんどん買い手市場になり、量がさばけないだけでなく、値段も大幅に下がる可能性がある。
もちろん、このような産地として厳しい状況の中でも品質を高めブランド化したり、加工度を高めて安定化したり、直接販売を目指して不要なマージン分をカットしたりする基本的な努力は続けていくべきと考える。それとあわせて近年市場として膨れ上がっている海外の市場に関心を持つことが必要となってきた。
日本の各企業は、安い労働力で安く製品を作る場所にして中国をとらえていたが、最近では有望な市場としてとらえなおす動きが加速している。それは政府が指導するとかではなく、各企業が自主的に判断し、行動しているのである。それでは、そのように行動できない小企業や農民、漁民を抱えている地方はどうすれば良いのであろうか。やはり政府の指導などを待っていれば出遅れるのが必然である。自分自身で動かざるを得ないし、今が動くべきときなのである。そう県内の町村長が決断し、上海を訪問した。
ある町は、杉の木の集成材を売りたいとのことであった。残念ながら中国では、一戸建はコンクリートが主流とのことではあるが、家具、内装は有望との情報が得られた。海産物のカキを売りたい村もあったが、ライバルとしてオーストラリアのカキが存在することも分かった。
一戸町としては、野菜とか牛乳が売れないかとの打診をした。中国側の考え方は、単純な一次産品は歓迎しないとのこと。理由は農村を守るためである。したがって、野菜などは無理であることが分かった。
しかし牛乳は、加工品だからΟΚとの話であった。たぶん中国には守るべきほどの酪農業が存在しないからであろう。すでに大分県が試験的に上海に牛乳を持ち込んで大好評とのことであった。
二つ目の付き合いとして、観光客の誘致に狙いを定めて訪問した。何でも上海では東京、京都に並んで北海道が大人気であるらしい。作戦の立て方によっては、東北地方も可能性があることが分かったのも収穫であった。
プラ印分別(広報2010.7月号掲載)
わが家で排出する可燃ゴミが最近飛躍的に減量された。理由は簡単である。プラ印が付いているものを分別してみたのである。
ヒントはある集会で一人の主婦が漏らした一言であった。「プラ印のゴミをより分けたらゴミが大幅に減った。半分以上減った感じかな」と言ったのである。この言葉がかなり気になった。わが家のゴミの中にもプラ印のものが多いなとは感じていた。また、可燃性のゴミをもっと減らせないかと思案していたのである。
「そうか、プラ印の物を分別すれば半減できるかもしれない」と考え、実践を続けたのである。効果は劇的であった。ほとんどの物にプラ印が付いていた。また大半が洗わなくても良いくらいキレイな姿であった。若干の物は汚れていたので洗ったのであるが、気にならないくらい少量で、また汚れも除きやすかった。
わが家のゴミからは生ゴミを分別して自家の堆肥処理してから数年が経っている。そうしたときにもゴミが半減したので、今回プラ印のものを分別してさらに半減したので、½×½=¼となって、ゴミがずっと前に比べて四分の一くらいになった。実感で言えば、ゴミがゴミ箱に全くたまらなくなったという感じである。
そういえば、主婦がプラ印のゴミの話をした時、同席していた別の人が「仙台市ではプラ印の分別をすでにしている」と相づちを打った。住民のゴミに対する意識の高まりを感じたしだいであったし、刺激を受けたのも事実である。
わたしの選挙でのマニフェストで生ゴミの五年間での全量資源化と十年間でのその他可燃ゴミの全量資源化を宣言したばかりである。その実現のために、工程の明確化や迅速化に取り組み始めた矢先である。
順序から言えば、生ゴミの処理を先行してきっちりやってから、そのほかの可燃ゴミの処理計画を決めるつもりであったが、プラ印のゴミの分別がめどを立てやすいとなると先行後行ではなく並行して考えることができる。
生ゴミの資源化には肥料(堆肥、液肥)として使う方法やバイオガスにして燃料として使う方法がある。プラ印の物の資源化も協会を通して物質として再生する方法と燃料として使う方法がある。わが町には、どちらがふさわしいであろうか。住民と共に考えたい。
またこうなって来ると、生ゴミとプラ印のものを除いた残りの可燃物も資源として仕分けて使いやすくなってくる。楽しみながら考えてゆきたい。
都市計画街路の受賞(広報2010.6月号掲載)
都市計画街路上野西法寺線がこの度の全国街路事業コンクールで特別賞の栄誉に輝いた。道路としての完成度に加えて、その道路の果たす都市的な機能、また街路と一体となった多様な施設が提供する使命、さらに周りの山々に囲まれながら、それと調和する街路と街区の景観が評価されたと感じている。
すべては、一戸病院の移転から始まった。旧敷地の五倍の面積が必要とのことであった。五㌶である。その用地確保を考えた時、旧町内で探すのは無理どころか、そこから一番遠い山際しか取得できないだろうというのが一般の見方であった。バブルの最盛期でもある。
しかし、わたしはヨーロッパで見聞きした都市づくりの見事さを一戸と関係ないとしてあきらめたくはなかったし、加えて県内で同じように移転を余儀なくされた県立病院が山際に移された場合、その後どうなっているのかをつぶさに視察した。
病院を不便な山際に移してしまうと用地の確保が容易な代わりに思わしくないことが次々と起きていた。
そこで、一番良い場所を選ばせてもらった。用地交渉は難航を極めたが、まちづくりとしては次から次へ新しい展開ができた。
病院の隣に福祉行政施設や老人介護施設ができた。斜め向かいには、ホールと図書館が開設されにぎわっている。警察の交番もできた。
また、商業ゾーンにはショッピングセンターが生まれ、年間一一〇万人が出入りしているらしい。真ん中の空間には、町民の手作りの公園が徐々に姿を現してきた。
このような生活に必要な役割を果たすものが集積を続けてきたのがこの一〇年であった。また、この集積が相乗効果も生んでいる。見舞いに来た人が本を借りる。また買い物をする。親が買い物する間に、子どもが図書館で本を見る。また、万引きが少ないのも交番の存在のおかげでもあるらしい。
医療と福祉の連携もやりやすい。新しい街なので、屋根や壁の色をそろえることもやらせてもらった。電線も地中化したり、見えない所に張った。落ち着いた上品な雰囲気になったと思う。一〇年前を思うと感無量である。一〇年前は一面の田んぼであったから。このような街の軸として県と町で分担して街路を整備してきた。
この街路が受賞したのであるから、本当にうれしい。受賞を弾みとして、中心商店街まで届いた街路を、ぜひ線路を越えて役場前へも到達させたい。
(広報いちのへ 2010.4月号 「特集 まちづくり」)
(広報いちのへ 2010.2月号 「特集 チャンス」)
年頭のあいさつ(広報いちのへ 2010.1月号掲載)
所信表明(広報いちのへ 2009.12月号掲載)