帰住証文替証文

更新日:2022年02月10日

帰住証文替証文

帰住証文替証文

《町指定有形文化財》

ふりがな:きじゅうしょうもんかえしょうもん

名称:帰住証文替証文

数量:1

所在地:御所野縄文博物館

指定年月日:平成2年3月26日

江戸時代中期に藩財政の立て直しに尽力したことで知られる盛岡藩第7代藩主南部利視が、元文4年(1739)に下北半島の下風呂にお忍びで湯治に出かけたという記録が残されています。

とは言っても、8月21日から9月22日までの旅程で、温泉に入ったのはたったの一度きりでした。その内実は、当時31歳の利視が藩改革を進めていくために、自ら領内を見て回ることが目的だったのです。道中、利視は各地の代官所や村々の様子を見聞したほか、それぞれの地域に伝わる古物、名品を取り寄せて実見しました。

その中の一つが、平糠村の東ノ十郎左衛門の家に伝わる帰住証文でした。

この帰住証文は、九戸一揆に関わるもので、一揆終結後の天正19年(1591)9月6日に南部信直の依頼を受けた豊臣軍の四大将が、争乱を恐れて山野に隠れ潜んでいた村人たちに対し、身の安全を保証するので家に戻るよう促した文書です。東ノ十郎左衛門からこの帰住証文を見せられた利視は、大いに喜び、近習たちを残らず呼び寄せて見せたと記録されています。

その場では帰住証文を返したものの、湯治の旅を終えて盛岡へ戻った利視はあらためて東ノ十郎左衛門を呼び寄せ、帰住証文を藩に召し上げました。その証拠として、東ノ十郎左衛門に渡したものが「帰住証文替証文」です。

帰住証文を召し上げたのは10月になってからのことでしたが、替証文には元文4年8月と、利視が初めて帰住証文を目にした年月が書かれています。また、実際の帰住証文と比べると一ヶ所脱字がありますが、末尾には当時の盛岡藩家老三人の名前が書き連ねられていますので、藩の正式な文書であることが分かります。

この帰住証文の召し上げの経緯は盛岡藩に伝わる資料にも記録されており、近世における一戸町の歴史を伝える貴重な資料として町有形文化財に指定されています。

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