櫛目波状文双耳壺

更新日:2023年03月07日

櫛目波状文双耳壺

櫛目波状文双耳壺

《町指定有形文化財》

ふりがな:くしめはじょうもんそうじこ

名称:櫛目波状文双耳壺

数量:1

所在地:御所野縄文博物館

指定年月日:昭和61年12月25日

「櫛目波状文双耳壺」は高さ約20センチメートルで、口縁部と把手が欠けています。自然釉による光沢をともなう白灰色の胴部に、櫛の目のような数条の筋で波の模様が描かれています。12世紀末から13世紀初め頃に作られた珠洲系陶器と考えられています。

珠洲焼は、12世紀後半から15世紀末の間に珠洲郡(現在の石川県珠洲市)を中心とした日本海側の地域で生産された中世を代表する陶器の一つですが、東北地方には同様の技法による陶器(珠洲系)を生産していた中世の窯もあったため、生産地は特定できていません。

この「櫛目波状文双耳壺」は、昭和61年に行われた仏像調査の際、西方寺毘沙門堂の厨子の中に三体の仏像とともに納められているのが確認されました。毘沙門堂の裏手の尾根に経塚が二つあり、そこから出土したものと伝えられています。

経塚は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて流行した仏教の末法思想に基づいて築かれました。東北地方では奥州藤原氏の勢力圏内に多く分布し、その関係が示唆されています。一般的に経塚の内部には、経典を納めた経筒(きょうづつ)が埋められており、「櫛目波状文双耳壺」も経筒として用いられていたものと考えられます。

寛文3年(1663)に再建された毘沙門堂の棟札には、大同2年(807)に坂上田村麻呂によって創建され、貞観年間(859~875)慈覚大師によって本尊が安置されたことが書かれています。しかし、それ以外に中世以前の様子を伝える資料はありません。

そのため、櫛目波状文双耳壺は、中世において茂谷山麓がすでに仏教信仰の場所であったことを示す重要な資料となっています。

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岩手県二戸郡一戸町高善寺字大川鉢24番地9
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